詳細プロフィール
1961年 秋田県仙北市(旧:田沢湖町)生まれ。
1973年 父親の転勤で、小学校卒業と同時に生まれ育った田沢湖町を離れ東京に引っ越
す。中学2年生頃から高校2年生頃まで、放課後は自宅近くにある荒川の堤防 を一人黙々とランニングを続けた。
1979年 都立北豊島工業高校卒業。森ビル管理(株)入社。サラリーマン生活を送る。
1980年 六本木のライブハウスで親しくなった、クラブチーム「サーティーズ」のロン グライドにサポートとして参加。途中足が攣り走れなくなったメンバーの代わ りに走ることになり、初めてロードレーサーに乗る。そのスピードと爽快感に 魅了され、ツーリングから帰って直ぐ、東京都・上野にある「横尾双輪館」 (老舗プロショップ)にて、中古ロードレーサー(18万)を購入し、サーティー ズに入会。当時まだツーキニストという言葉は無かったが、虎ノ門にある会社 まで練習を兼ね、ほぼ毎日ロードレーサーで通う。出勤前、皇居と迎賓館の周 回がホームコースだった。
1981年 兵庫県・神鍋高原で行なわれた、サンツアー主催の「神鍋カップ」チャンピオ ンクラスでレースデビュー(18位)。
1982年 チャレンジサイクルロードレース・クラス3位入賞。サンツアー主催の神鍋カ ップ・チームタイムトライアル優勝を目指し、練習仲間「リバーワン」のメン バーと「サーティーズ」のメンバーが合体し、「サーティーワン」誕生。その 後、84年まで各地のホビーレースを総ナメ、その走りから“ の大石”の異名に。
1984年 (財)日本自転車競技連盟(当時は日本アマチュア自転車競技連盟)に選手登録 し、本格的な競技活動を開始。森ビル(株)退社。
1985年 国際サイクルロードレース(現ツアー・オブ・ジャパン)に東京代表として出 走。全日本選手権ロードに初参加(岩手県紫波町)集団ゴール、優勝はブリジ ストンの鈴木光広選手。
1986年 ホビーレース出身の草分け選手として、実力と才能が認められ、(株)三信技 研(松本市)の実業団チーム「サンシン・レーシング」に加入。実業団1年目 の全日本選手権でいきなり5位入賞し、評価を高めた。
「ツール・ド・ラヴニール」日本代表メンバーに選ばれ見事完走。翌月、オース トラリアで行なわれた「コモンウエルズ・サイクルクラッシック」(12日間の ステージレース)でも完走を果たし、海外のロードレースに可能性を見出す。
※この時のラヴニール優勝者は、後のツール・ド・フランス5連覇を達成した、 M.インデュライン(スペイン)だった
1987年 海邦国体(沖縄)優勝でメジャーレース初制覇
1988年 当時、国内最強レーサーの一人高橋松吉氏が、ツール・ド・北海道優勝と世界 レベルに近づく為、国内エース級の選手を召集し結成した、チーム「ボスコ」 (滋賀県彦根市)に移籍。この年、国内タイトルのほぼ全てをボスコが獲得、ボ スコ旋風を巻き起こす。
1989年 ヨーロッパに活動の場を求め、スイスを拠点にレース活動。帰国後、国体ロー ド(北海道)、ツール・ド・北海道、ツール・ド・おきなわに優勝しメジャー タイトル3連勝。アジア選手権(インド)4位。ボスコはメインスポンサーに 「エプソン」の協力を得て、国内初のヨーロッパ型クラブチームとして注目を集 める。
サイクルスポーツ誌の読者人気投票で選手部門1位。
1990年 全日本選手権ロードレース、ポイントレースで優勝し2冠獲得。日本開催(アジ ア初開催)の世界選手権代表メンバーになる。
8月、ドイツ遠征・ステージレース参戦、ドイツナショナルチームやメダリスト が参加したインターナショナルクリテリウム7位入賞。
9月、宇都宮(ロード)と前橋(トラック)で開催された、世界選手権で日本人 唯一の完走(アマチュアロード)を果たす。アジア大会出場10位、(北京)。
10月、2連覇確実視されていたツール・ド・北海道で、今中選手(シマノ、現イ ンターマックス代表)に最終日まさかの逆転負け、2位大石、3位大門選手(現 NIPPOヴィーニファンティーニ監督)。
1991年 シーズン初めからスイスを拠点に活動。世界選手権代表(ドイツ・シュツット ガルト)に選ばれるも、落車による遅れで完走ならず。
12月「エプソン・ボスコ」から独立、ボスコ以上のチーム作りを目指し、信 州・安曇野を拠点とする「エキップ・あづみの」を設立。バブル崩壊のあおり でスポンサーが手を引き、理想のチーム作りかなわず。
1992年 都道府県ロード優勝などで、好調を維持していたシーズン途中、センターライ ンをオーバーしてきた車と正面衝突の事故。鞭打ち症等の後遺症で体調を崩 し、シーズン後半は思うように走れず。
人力飛行機のパイロットとしてチーム・エアロセプシー(ヤマハ発動機)と契 約。チーム名も「エアロセプシーあづみの」となる。
1993年 ツール・ド・中部(中部3県)と全日本選手権ロード(青森県・八戸)を征し 2連勝。3度目の世界選手権参加(ノルウェー・オスロ)59位、優勝はヤン・ウ ルリッヒ(ドイツ)。プロはランス・アームストロング(USA・後にツール・ ド・フランス7連覇)。この年、MBK国内代理店のヤマハ発動機(株)がスポ ンサーに付く。チーム名「MBKヤマハあづみのPi」。
1994年 全日本選手権4位入賞で、アジア大会(広島)代表メンバーになる。アジア大会 レース直前に交通事故の後遺症が悪化、応急処置で出走するもレース途中でリ タイア。その後、症状が悪化、腰痛も激しくなる。
「MBKヤマハあづみのパールイズミ」として、ツール・ド・北海道初参加。
1995年 交通事故の後遺症で好不調の波が激しく思うように走れなくり、全日本選手権 ロードをキャンセル。第1回全日本選手権個人TTにしぼり参加したが、惜し くも2位(優勝は日本鋪道、柿木選手)。シーズン後半の国体ロード(福島) で3度目の勝利。ツール・ド・・北海道団体総合3位。
1996年 治療に専念するも症状が改善せず、ワールドカップに昇格したジャパンカップ (宇都宮)を最後にレース活動休止。
1997年 再起を期して様々な治療をするが、症状は改善せず。
1998年 レースでの経験を活かし、プロショップ「L'AVENIR」を安曇野にオープン。同 時にエリート主体のチーム構成から、ホビーレーサーも「あづみの」のメンバ ーとして受け入れ、クラブチームとして再スタートを切る。
豊富なレース経験を活かし、専門誌(サイクルスポーツ)でテストライダーと して各種インプレッションを行ない、的確な講評で読者の支持を得る。
2002年 治療のため行なっていた、吉宮式気功体操が功を奏し体調が徐々に回復。少し ずつ練習も開始し、全日本実業団石川大会で6年ぶりにレース復帰。往年の走 りで逃げ切り、優勝(BR-3)。
公益財団法人 日本体育協会公認 自転車競技コーチ取得。
2005年 安曇野市と提携し、かねてから希望していた、自転車学校を開催。
2007年 サイクリストにより良い環境を求め、市内 牧に店舗を移転。
2008年 八重洲出版発行の「ロードバイクインプレッション2008」でテストライダーを 務め、表紙を飾る。
2009年 八重洲出版発行の「ロードバイクインプレッション2009」でテストライダーを 務め、表紙を飾る。
2012年 サイクルスポーツ誌主催、全日本最速店長選手権で優勝。日本オリンピック委 員会強化コーチ(トライアスロン)としてロンドンオリンピックに帯同。
2013年 一人ツール・ド・東北1,000Km(安曇野~下北半島大間、4日間)完走。
2014年 サイクルスポーツ誌主催、全日本最速店長選手権で2度目の優勝。